自分が嫌いなものを誰かが貶しているのを見ると、愉快というか痛快というか。どうしても、気が小さいもんだから、なかなか貶せないのです。
でもなあ、あんなものを「好き」だと表明できる人とは、別に友達になる必要はないわけだしなあ。
というようなことを、をかべさんの1月9日の日記を読んで思ったのでした。
このへん。

今年イッパツ目のマスコミ試写『Dear Friends』です。あー、氣が進まない<観る前からそんなことを言うな。だって、親指さがしの人の原作だ、と思って臨んだら違った


あ(氣づく音)。“佐藤だか鈴木だかのの者同士殺し合いをしろと、やはりその同じ苗字を持つ王様がオフレを出した”ってゆうラスト読め読めの小説を書いた奴と、ケータイで読む用にちゃちな山場ばっかりで構成された単純でひねりもない小説を書いた奴は、別人だったか(うろこ)。その、後者の奴の原作だった。


さすがだ。酷い。幼稚にして∩卑怯だ。高飛車で嫌な性格美人になってざまあみろ、って話だった。うわ。よくこんな話書くなあ。


『ラストが読め読めの小説』は、悔しいことに、通読してしまいましたよ。『まさか、そんなラストはないだろ、いくらなんでも有り得ないだろ』という期待というより願望によって読み続けたけど、やっぱりそんなラストだった。まあ、その作家の作品の一切を読む必要なしと判断できたという意味では、読んだ価値はあったかもしれない。7ミリくらい。


後者の、名前がローマ字の人の、冒頭から女子高生とおっさんが性行為してる音を描写しちゃってる小説も、悲しいことに、読んだよ。16歳くらいのときに。死を、馬鹿みたいに美化したような話でしたね、たしか。

そういえば、エアーズロックに行けなかった話を読んだのも16歳くらいだ。もっといいものを読め、あの頃の自分。濫読はそんなに偉いことじゃないぞ!